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「本能寺の変」明智光秀の動きを時系列で説明!残る謎と違和感・・・真実は?

「本能寺の変」明智光秀の動きを時系列で説明!残る謎と違和感・・・真実は?

本能寺の変

「本能寺の変」明智光秀の動きを時系列で追ってみました。

明智光秀、最後の日々について紹介していこうと思います。

「明智光秀」の発句『ときは今あめがした知る五月哉』

明智光秀
明智光秀

天正10年(1582年)織田信長の武将惟任日向守(これとおひゅうがのかみ)明智光秀は、主君信長より中国地方への出陣を命じられます。

羽柴秀吉の毛利征伐を支援するためでしたが、これより先、光秀は安土城にて徳川家康の接待役を命じられていました。

5月15日から三日間の予定の饗応(きょうおう)でしたが、そのお役をご免になっての下知でした。

5月27日、丹波亀山城を出立し、京都愛宕大権現に参拝、当時の出陣前の作法に従い神前で神籤(みくじ)を引き、別当院の威徳院西坊(にしのぼう)で戦勝祈願の連歌会を催します。

これが有名な愛宕百韻です。その時の光秀の発句『ときは今あめがした知る五月哉』

愛宕百韻(あたごひゃくいん)は、本能寺の変の直前に愛宕山で明智光秀が張行した連歌である。 「明智光秀張行百韻」「天正十年愛宕百韻」とも。Wikipedia

これは本能寺に奇襲をかけ、信長を討ち果たし、自分が天下を取る決意を述べたものだとされます。

当時、光秀の居城は近江坂本城でしたが、丹波支配の拠点として亀山城を置いていました。

亀山城(かめやまじょう)は、京都府亀岡市荒塚町周辺(旧丹波国桑田郡亀岡)にあった日本の城。亀岡城とも。明智光秀によって丹波統治の拠点として機能した城郭である




「明智光秀」謀反の覚悟

織田信長
織田信長

28日には一旦帰城し、軍勢を整えますが、6月1日の申の刻(午後4時頃)家中の物頭(ものがしら)に対して、『森乱(森蘭丸)より飛脚あり、信長様には中国出陣の馬揃えをご覧になるとのこと。早々に人数を召し連れて上洛するようにとの上意である』と告げています。

これで山城の国との国境、老ノ坂(おいのさか)峠を越えた後、秀吉を支援するのなら沓掛(つくかけ)から西国街道に向かわねばなりませんが、その道をたどらず、京の都に向かう理由を創りました。

老ノ坂
丹波国と京都を行き来するのに使われた道。 多くは桂川を渡らずに山崎や淀へ行くのに使われるが、明智光秀は本能寺の変のとき、山崎に向かわずあえて桂川を越えて京都市内へ向かったとされる。丹波国と山城国の国境付近には、国境を示す道標が今も残っている。

酉の刻(午後6時頃)軍を率いて亀山城を出立、その後光秀は自ら軍勢を三つに分け、その総数を家臣の斎藤利三(としみつ)に尋ねます。

『1万3千は御座あるべし』、明智秀満(ひでみつ)など5人の宿老を呼び寄せ、この時初めて自身の謀反の覚悟を打ち明けます。

宿老たちの反応ですが、口々に『目出度き御事』『明日よりして上様とは仰ぎ奉るべき事、案の内に候』と言い、誰も引き留める側には回っていないのです。

それまでの信長と光秀のギクシャクした関係をそばで見ていて、いつかはこうなると覚悟していたのでしょうか。

老ノ坂を越え沓掛の在所で腹ごしらえをし、桂川に差し掛かると光秀は新たな触れを発します。

『徒立ち(かちだち)の者は新しい足半(あしなか、かかとの部分が無い草履)を履け』

『鉄砲のものは火縄を一尺5寸に切り、その口に火をつけて5本ずつ火先を逆さまにして下げよ』

これは臨戦態勢です。

信長御膳での馬揃えのためと思って従ってきた兵たちも、ここで自分たちが何のために行軍を続けているのか理解したでしょう。

「本能寺」討ち入り

6月2日 早朝卯の刻(午前6時頃)信長の宿舎本能寺は明智勢に取り囲まれます。

境内に向けて打ち込まれる鉄砲の轟音に目を覚ました信長『これは謀反か、如何なる者企てぞ』とそばに侍る蘭丸に問いかけます。

『明智が者と見えし候』蘭丸の無念そうな返答を聞くと『是非に及ばず』とうめくようにつぶやきました。

有名な場面ですが、古来、信長のこの言葉は様々に解釈されてきました。

しかし、ここはやはり明智ならば準備に遺漏(いろう)もなかろう、儂(わし)もここまでか』と覚悟を決めたと取りたいものです。

信長はそれでも弓を取り応戦しますが、2、3度引いただけで弦が切れてしまいます。

次に槍を持って立ち向かいますが、肘に傷を受け、もはやこれまでと覚悟し、付き従う女房たちに『女は苦しからず、急ぎ罷りいでよ(まかりいでよ)と命じて逃がします。

建物に火のかかる中、最後の姿を敵に見せじと殿中奥深くに籠り自害して果てました。

信長の最期を確信した光秀は、宿舎の妙覚寺から二条陣屋に移って明智軍を迎え討った信長嫡男、信忠を討ちます。

信忠の奮戦は凄まじく、家中の信頼も厚かった彼が、何としても安土か岐阜へ落ち延びていれば織田家の運命も変わったものを・・・と思うのですが、これはもう歴史のタラレバ、言っても意味のないことです。

「織田信長」の本拠を押さえるべく安土城に向かい「近江平定」

洛中の残敵掃討を終えると、光秀は信長の本拠を押さえるべく安土城に向かいます。

途中勢多(せた)城主の山岡景隆・景佐(かげすけ)兄弟が味方につくのを拒み、瀬田の唐橋を焼き落としてしまいますが、それでも5日には安土城入城。

この時、安土城留守役であった山崎片家(かたいえ)・近江山本山城阿閉貞征(あつじさだゆき)父子・近江の国衆・若狭の国衆も光秀に従ったので、近江平定は支障なく行われました。

一方、美濃では安藤守就(もりなり)父子が光秀に呼応して挙兵しますが、北方を領する稲葉一鉄の反撃にあい討ち死に、美濃野口城主西尾光教(みつのり)にも加担を求めますが、これも拒否され、美濃ではあまり勢力を伸ばせませんでした。

注意すべきは、光秀は安土城に朝廷の使者を迎えているのです。

6月7日到着した使者は緞子(どんす)の反物などを光秀に送りました。

朝廷としては形勢を見ながら一応光秀にも誼(よしみ)を通じておこうとしたのでしょう。

この辺りまでは天下の行方はどう転ぶとも分かりませんでしたが、この後一気に潮目が変わります。

「本能寺の変」と「中国大返し」

中国大返し(ちゅうごくおおがえし)は、天正10年6月(西暦1582年6月-7月)、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での自害を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動のこと。

6月9日、安土から上洛した光秀は都に入ります。

秀吉が西国から取って返すとの噂が広まっていたので、その対策のためでした。

光秀は天皇と親王に銀子500枚、京都五山の寺院と大徳寺には100枚ずつ、朝廷との仲を取り持っていてくれた吉田神社の宮司、吉田兼見(かねみ)には50枚を進上しています。

寺院に対しては信長の供養料の名目でした。急に朝廷に接近しだした光秀ですが、その裏は自分が旗揚げすれば当然駆けつけてくると思っていた武将たちの反応が鈍かったからです。

光秀は9日付で姻戚関係にある細川藤孝・忠興父子に、但馬・若狭2カ国を与えることを条件に自分に合力するよう求める自筆書状を送っています。

返ってきた報せは、親子が信長の死を悼んで髪を切ったというものでした。

ついで当てにしていた筒井順慶も、一時はいい顔をしたものの結局自分の居城に籠城してしまいます。

このあたりから形勢は、はっきり光秀に不利になってきました。

四国征伐に向かうはずだった織田信孝(信長の三男)は麾下(きか)の軍勢は崩壊したものの丹羽長秀と呼応し、光秀の娘婿である津田信澄(のぶずみ)を討ちます。

茨木城主、中川清秀・高槻城主、高山重友(しげとも)に対する工作も失敗し、彼らも池田城主池田恒興(つねおき)と共に、秀吉や信孝に与する動きを見せます。

そんな中、変事を知ってからわずか1日で毛利との和睦を成立させ、山陽道を引き返してきた秀吉が、9日には姫路を発して摂津尼崎に迫っているとの知らせが入ります。

2万の大軍を率いる戦上手の秀吉に出てこられては・・・光秀の胸中に焦りが生じ始めました。

「明智光秀」の凋落 最期の日

11日、秀吉軍迫るとの報せを受けた光秀は、下鳥羽(しもとば)に出陣し、迎え撃つため淀城の修築を始めますが、いかにも遅い。

12日、秀吉軍は摂津富田に着陣、池田恒興・中川清秀・高山重友ら摂津衆の武将、堺泉州の天王寺屋宗及ら商人たちも続々と駆けつけ、はっきりと形勢は固まりました。

ここに来て光秀はようやく将軍足利義昭を封じることを決断しますが、義昭が身を寄せる毛利氏は秀吉と和睦が成立していましたので、実効のあるものとはなりませんでした。

13日 巳の刻(午前10時頃)信孝と合流した秀吉は山崎に布陣、光秀も御坊塚に本陣を置き斎藤利三・柴田勝定らを先手としますが、明智で1万6千、対する秀吉軍は4万を上回る勢力でした。

激しい雨の中始まった決戦でしたが、人馬の数で勝り『謀反によって殺された主君の遺児を押し立て、恩顧の家臣が弔い合戦を挑む』

この構図にはなかなか勝てるものではありませんでした。

明智軍は総崩れとなり、光秀は近くの勝竜寺城に逃げ込みますが、真夜中闇に紛れて羽柴勢の重包囲を突破し、本拠地坂本城を目指します。

しかし、伏見の小栗栖(おぐるす)辺りまで逃れたところで土民の突き出した槍に倒れ、最後を迎えました。

挙兵からわずか14日、あまりにも目まぐるしい光秀の最期の日々でした。




「本能寺の変」に残る謎と違和感、真実は?

これが戦国の謎、『本能寺の変』での光秀の行動ですが、どうにも違和感が拭えないのです。

信長の光秀に対する仕打ちや、神仏を恐れぬ所業に『この男生かしておいては世のためにならぬ』と思ったのかもしれません。

しかし信長を倒した後、どうするのかが見えてこないのです。

信長亡き後の権力の空白を光秀が引き受ける覚悟があったのか、自分にできると思ったのか。

あの頭が良く緻密な思考のできる光秀に、合点のいかぬ謀反で謎です。

ここから黒幕がいて、誰かに踊らされていたのではないか?との疑念が生じるのですが、今となっては真実はすべては藪の中です。

大河ドラマ『麒麟がくる』でこの辺りの謎がどのように描かれるのかが楽しみですね!

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